フランス語と窒素

 以前にも述べたように1)、フランス語と英語の化学用語は似て非なるものがある。しかしそれらの多くは文法的な違いに起因し、また発音も若干違うだけだから、まるっきり「歯が立たない」というわけでもない。例えば、以前の例1)のデオキシリボ核酸(英:DNA, Deoxyribo Nucleic Acid)は、フランス語ではADN (Acide Désoxyribonucléique)というが、これは単語そのものの綴りが若干違い、また修飾語の順序が変わっただけである。ところがどっこい、フランス語の化学用語において、綴りから発音まで英語とはまったく違い、かつ化学に従事する上では欠かせない単語がある。それは「窒素」である。
 僕は有機化学の専攻であったので、当然のことながら有機化合物が研究の対象となる。 典型的な有機化合物ではまず、炭素(C)、次に水素(H)、その次に酸素(O)、そして窒素(N)とくる。(他に硫黄(S)、リン(P)、その他のハロゲンなどの元素もあるがここでは触れない。)英語では、これらの元素はそれぞれカーボン(Carbon), ハイドロジェン(Hydrogen), オキシジェン(Oxygen), そしてナイトロジェン(Nitrogen)と言う。そしてフランス語では、カルボーヌ(Carbone), イドロジェーヌ(Hydrogène), オキシジェーヌ(Oxygène)となるから、この調子でいくと窒素は“ニトロジェーヌ”かと思いきや、さにあらず。アゾート(Azote)と言うのである。
 元素としての窒素は、フランスが生んだ大化学者にして大科学者、質量保存の法則で有名なラボアジェにより発見され命名された。彼は、窒素中では生物は生きることができないことから、フランス語の否定接頭語である(a-)と「生きているもの」に対応するギリシャ語 (ζῷτ-, zote)を組み合わせ、窒素をAzoteと名付けたそうである。もしかしたら、ラボアジェがフランス人だからフランスでは窒素が「アゾート」と言われているのかもしれない。もっともそのラボアジェを処刑したのはフランス革命なのだが。この事をフランス人の友人に聞いてみたが、彼は知らなかった。
 しかし、これを知った瞬間に僕の頭にピンと来たものがあった。僕は有機化合物の命名法を習った時から、窒素を含む有機化合物において、なぜ窒素を「アザ(Aza)」と言うのか不思議に思っていた。例えばベンゼンの炭素の一つが窒素に置換したピリジンは、別名アザベンゼンである。この「アザ」は、実はフランス語の「アゾート」に由来しているのではないのだろうか。そうだとすると、私達は多くの有機化合物の中にフランス語の名残を見出すことができるのである。ちなみに、化学ではなく生物学の話になるが、窒素固定菌には「アゾトバクター(Azotobacter)」と呼ばれるものがある。ここでも「窒素」が「アゾト」になっている。
 これに関連して、いくつかの窒素化合物の名称も英語とはかなり異なってくる。例えば、二酸化窒素NO2は英語では「Nitrogen dioxide」というが、フランス語では「Dioxyde d’azote」となる。しかしながらややこしい事に、この二酸化窒素と水が反応してできる硝酸HNO3(英: Nitric acid)は、フランス語でも英語と語順が変わっただけの「Acide nitrique」なのである。さらに、アジド化合物のアジ基-N3(英:Azide)は“アジ”というくらいだからフランス語由来かと思い、フランス語でも「Azide」かなと思いきや違っていて、「Azoture」となる。博士論文の中でアジ化ナトリウムの事を、「Azide de sodium」と書いたら、先生にこっぴどく怒られたからこの事はよく覚えている。アジ化ナトリウムは正しくは「Azoture de sodium」である。
 最後に余談になるが、フランスの隣のドイツでは元素としての窒素を「Stickstoff」と言うそうである。つまり窒素はイギリス、フランス、そしてドイツとヨーロッパを代表する三ヶ国で呼び方が違う元素なのである。
編者注1) 『モンペリエ直送便』第2回「フランス語と化学用語」を参照してください。
(https://hirofrench.com/archive/espace/monperie/111005.php)