C'est une histoire vecue en France .
菅野智
僕がフランスのボルドーに留学した期間は、2005年9月~2007年2月までです
その間、フランス人・スペイン人・イングランド人・アメリカ人・韓国人・中国人・タイ人・メキシコ人・ブラジル人・ケニア人、母国語が違い、性格が違うにも関わらず、「異なる言語」で友人ができ、恋人ができました。
それは、言葉の問題は常にあったけど日本にいるときとほぼ変わらない生活でした。
「言葉の壁」は非常に高く、厚く、簡単に登ったり、破ったりすることはできません。なぜなら、朝の挨拶を交わすだけでも「言葉」に対する絶え間ない努力と好奇心が必要だからです。
さて、「フランス語」が上達した、と思った瞬間ですが、相手からかかってくる電話にフランス語で対応してからです。
それは、「授業のノートを貸してくれない?」とか「今晩は何してる?」とか。
電話を受けるのは突然で答えを準備していないし、簡単に「OUI.」(はい。)とか言えないから、真剣に聞く。
もう一つは、フランス文化の影響がありました。
フランス文化は【会話に参加できなければ友達と認められない文化】
僕は話が途切れないように、意識して馬鹿な冗談を言ったり、真面目な話をしたりしていました。ここで大切なのは、同じ意味を持つ単語でも、馬鹿な話の場所で使われる言葉と真面目な話の場所で使われる単語に分けられるということ。
以上のことが日常的に行われるようになって「話せている」という自信が生まれました。それからは、授業の内容、ボルドー市内を通るトラム(市電)の中のフランス人達の会話、カフェ・レストランにおけるウエイターから老若男女のフランス語が少しずつわかるようになりました。友達とのコミュニケーションの中で分からない言葉が出るとすぐ質問して教えてもらい、新しい言葉を覚えれば使い、記憶していく。まるで、赤ん坊のように。
フランス語が全く話せなかった最初の頃は、女友達のAUROREを発音できなくて、散々馬鹿にされていました・・・。
さらに、「危機」」に陥ったときに言葉は出てきます。
僕の場合、寝坊をしてモロッコ行きの飛行機に間に合わなかったので飛行機会社の人といろんな交渉をしたこと。(モロッコのホテルを既に予約していたので、結局別の便のチケットを買いました。)
パリからボルドーに帰る時にフランスの銀行カードと日本のクレジットカードが使えず(もちろんお金も引き出すことができなかったので)仲の良いフランス人をボルドーからパリまで呼んで、新幹線チケットを買ってもらい一緒に戻ったこと。
帰国直前に、銀行口座を閉じるときに銀行の人と言い争いになったこと。
今、思い出すと、笑ってしまう体験でした。
フランスを意識した20歳頃から、私の周囲はフランスにゆかりのある人が増えています。日本に帰ってきてからもフランスに縁のある人が増え続けています。彼らは、私にとって非常に大切な人たちです。
ここで重要なのは、フランスに居たときより今の方が楽しいということです。手に届かなったフランスが、手に届くようになり、握り締め、今は良いバランスを保ってフランス文化・フランス語と付き合っています。
「留学」は一つの通過点でしかありません。
何より、「留学」は強い意志が必要で、それさえ持っていれば、簡単に海を渡ることができます。しかし、何も目的が無く「なんとなく留学してみよう」という思いだけを持って留学するのは止めたほうがいいです。
特にフランスでは、ラテン民族特有のいいかげんさに日本人の真面目さが合わない場合もあると思います。実際に、それがストレスになっている人もいるようです。
僕の場合は、フランスでの生活に違和感なく溶け込めたと思います。ただ、一度だけ非常に仲の良かった韓国人の男友達が母国に帰ったときにはホームシックのような故郷を懐かしんで深く考え、塞いでいた時期もありました。
その心を中和してくれたのは、周りにいた国籍を問わない友達、僕より先にフランス留学を経験した人生の先輩方のアドバイス、適度な距離を保ってくれたラテンの空。
そう、弘前と同じ空は続いているけど、空を見ている場所は昨日と同じか、それとも違うか、
それは誰も教えてくれないから、勇気と意思を持って自分で感じるしかない。
2004年弘前学院大学文学部日本文学科卒業
2005年9月~2007年2月、ボルドー語学留学