私が何でフランス語を話すようになったか?
山井教雄
弘前在住の国際政治漫画家、山井教雄さんのご登場です。直接学生インタビューに応じるよと好意的にご提案いただいたのですが、セッティングがうまくいかず、まずはメール・インタビューで登場いただこうと下の二つの質問をお尋ねをしたところ、ご多忙の中、年末の深夜すぎ、玉稿と多くの画像データを届けて下さいました。
1)francophoneのNo-rioさんが、フランス語を話すことになった経緯
2)現在どのような機会にフランス語を使うか、あるいはNo-rioさんの現在のフランス/フランコフォニー圏との仕事上の接点は?
分離壁(シャロンの壁)に漫画を描く。
今の、フランス語での仕事は?というご質問ですが、これが簡単には答えられないのです。
私の人生は一本道ではなく、紆余曲折...平たく言えば支離滅裂なので、人生の曲がり角を説明しないと話がつながらない...勢い話が長くなってしまうのです。
今回は特急並に、細かいところはすっ飛ばして極力短く書くつもりなので興味のある方は読んでみてください...と言いつつ、すでに出だし が長いですね。
〈小学校まで〉
私が生まれたのは1947年の東京、戦後2年目に生まれたベビーブーマーです。
いわゆる『戦後民主教育』を受けました。マッカーサー指揮するGHQが日本を占領し、アメリカ的民主主義を押しつけたわけです。丁度今ブッシュが中東にアメリカ的民主主義を押しつけようとしているように。
さむらい映画や歌舞伎が禁止されたことで分かるように、GHQは戦前の日本の伝統的文化、思想を封建的だと排し、敗戦で自信を失った日本の大人たち、教師たちも"American way of life" "Anerican way of Thinking"を追い掛け、NHKのラジオ英会話の教科書がベストセラーになる時代でした。
私もアメリカ文化、アメリカ的生活にあこがれました。
親からは東京空襲など、戦争の悲惨さをイヤというほど聞かされました。
これも、後になって職業選びに大いに影響を与えたと思っています。
〈中学〉
区立中学に入り、英語を習い始めるわけですが、これが嬉しかった。
先生がまた良かった。
教育指導要領など全く無視。毎日授業に小型トランクほどの大きさがあるオープンリールのソニー製テープレコーダーを持ってきて、英語を聞き取り、リピートするだけ。
間違えたり、発音が悪いと立たされました。英語の授業はほとんどの生徒が立っていました。
『文法なんてのは、文章を沢山覚えれば、そのうち自然に分かるようになるよ』というのが彼の持論で、時々要点を説明してくれるだけ。これで本当に分かるようになっちゃったのですから、子供の語学能力とはすごいものです。
当時のラジオはアメリカンポップスが主流でした。
我々のアイドルは、ニール・セダカ、ポール・アンカ、プレスリーなど。ビートルズ以前の歌手たちです。
彼らの歌は、『♪月だ、星だ、愛だ』なんて調子の単純な歌なんですが、耳ができてたもので、これをかたっぱしから暗記しちゃいました。
"♪You've turned into a prettiest girl I've ever seen"
(知らない間に)なんてイイ女になっちゃったんだ!
"♪If I were a princess, I'd make you my prince"
私が王女様だったら、アンタを王子様にしてあげるのに。
今でも100曲くらい歌えると思います。
歌の内容はこんな風にミーハーだけど、重要なイディオム満載、『現実に反する仮定法現在』なんて複雑な文法もガンガンでてきます。お陰で、英語の試験は本当に鼻歌まじりで気楽に受けることができました。
映画も良く見ました。洋画ばかり。年間100本見ることを目標にしていました。名画座というのが沢山あり、3本立て中学生100円なんてのが普通でしたので、お金はなくとも、暇と体力さえあれば、年間100本は難しいことではありませんでした。当時、洋画は年間150本くらいしか輸入されていませんでしたので、『モダン・タイムス』のような名画から、『生娘吸血鬼』のような俗悪なものまで、輸入されたほとんどの洋画を見ていたことになります。
友人たちも良く見ていました。中学校の番長は、「『勝手にしやがれ(ジャン=リュック・ゴダール)のジャン=ポール・ベッルモンドがかっこイイ」というし。クラスの女の子は『さよならをもう一度』のアンソニー・パーキンスのファン。親友は「彼女が『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローに似ているんで惚れちゃった」なんて言うし、今考えると、とても中学生の会話とは思えないですね。
街にはGI(アメリカ兵)が大勢いました。彼らの愛読書は"Playboy"。当時世界で400万部売れていたといいます。GIたちが読み捨てていったPlayboyを古本屋が二束三文で売る。
それを良く買っていました。もちろんこちらは思春期。Playmateの写真を隠れて回し見るのが目的でしたが、そのうち英語もぼちぼち読めるようになる。すると、中のヒトコマ漫画がとてつもなく面白くなった。それで、神田の古本屋街を渉猟して、外国漫画をコレクションし始めました。
英語とヒトコマ漫画の楽しさを教えてくれたPlayboyに今でも感謝しています。
〈高校・大学〉
高校では、英語の授業は無視して、英語でヘミングウエイを読んでいました。
? その影響で、スペインやスペイン内乱に興味を持ち、東京外国語大学に行ってスペイン語を習うことにしました。
当時、外語のスペイン語科を卒業すれば商社に入ることは差ほど難しいことではなく、入社して2、3年でブエノスアイレスかリマ支店に飛ばされる。高い給料をもらって南米で優雅に暮らそうと、勝手に考えていました。
ところが、入学2年目に大学紛争が始まってしまったのです。
私も全共闘の一員となって、機動隊に、矛盾だらけの社会に石を投げました。ついでに、人生も軌道修正しました。
商社に入り、高給をもらって外国で優雅に暮らす夢はあきらめて、世の中にプロテストしていこうと決めました。
プロテストする手段として選んだのが映画です。
大学を6年かかって卒業すると、マッキャン・エリクソン博報堂(広告代理店)に入りました。当時、映画は斜陽産業で、助監督の募集などしていなかったので、広告代理店でテレビCMを作りながら映画製作の勉強をしようと考えました。外語出にも関わらず、営業としてではなく、CMのアートディレクターとして採用してくれたのはマッキャンだけでした。
〈パリ時代〉
マッキャンで3年間、コカコーラ、ネッスレ、ジレットなどのTVCMの企画(ストーリーボードを描く)から監督まで、やらせてもらい、映画製作というものがどんなものか分かってきました。そこで、パリに行くことにしました...プロテストとしての映画を作るために。
当時、映画修行に行く先として考えられる都市が3つありました。
パリ、ニューヨーク、モスクワです。
迷わずパリを選びました...フランス語も分からないのに。
パリにはヌーベルバーグ映画の伝統があります。ゴダール、トリュフォーのようなシネフィル(映画狂)が、助監督を経験することなく、シネマテークで映画を勉強し、突然映画を監督しだす。これがまた世界的に当たったものだからプロデューサーがつく。こういったプロセスで一連のヌーベルバーグ映画が制作され、彼らは大物監督になって行きました。
そんな訳で、無名の日本人がヒョッコリやってきても、映画を撮らせてもらえる可能性があるのではないかと、無謀にも考えたのです。
パリに1年ほどいて、ひょんなことから、東洋語学院(フランス国立東洋言語文化研究所)のオーディオビジュアル室にソニーのプロ用ビデオ撮影、編集機材があるのを発見しました。何とかこの機材を使って作品が作りたいと考え、日本語視聴覚ビデオの企画を作って、所長に掛け合うと、これがOK。国際交流基金からの100万円の助成金だけで、なんとか作り上げると、なかなか評判がいい。朝鮮語、中国語のビデオも作れとの注文が来る。東洋語学院からは、作った日本語視聴覚ビデオを使って授業をしないかとのオファーが来る。フランスの大学の講師として必要な修士号は、制作したビデオを修士論文と認めてくれるおまけ付きです。
3年ほど自分のメトッドで教えて、論文を書くと、第三期博士号もいただけました。
(このメトッドを未だに使い続けているフランスの私立大があります)
ユネスコからは『軍縮キャンペーン』のフィルム企画、制作の注文がきました。やっとプロテストの映画が撮れるようになった訳です。
ここまでが、どうやってフランス語を話すようになったかの説明です。
次に、どうして漫画家になどなったかの説明をします。
始めにパリに行った時は、男3人でかなり広いアパートを借りていました。
ある日、その便所の鍵が壊れ、『入ってます』『入ってません』の札を漫画入りで作りました。(右画像)
『入っている(Occupé)』は、当時プラハを占領したソ連軍の戦車の砲塔がトイレになっていて、男が顔を出している。『入っていません(Libre)』は便座に自由の女神がトイレットペーパーを持って、水洗のひもをトーチ代わりに持っているもの。これを見た友人や漫画家がプロとしてイケルといって、漫画の仕事をくれるようになりました。パリから日本の雑誌に出していたし、日本で読売漫画賞をいただいたりして、パリに変な日本人漫画家がいると評判になったようです。
亡くなった手塚治虫さんや、やなせひろしさんがパリに来た時には食事に誘われるようになりました。
〈日本に帰る〉
1988年、朝日新聞がTimeやNewsweekを目指した週刊誌AERAを刊行する事になり、専属漫画家として雇われました。当時AERAは国際ニュースが主体でした。
ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体、冷戦の終結など、激変する世界を興奮して漫画にしました。
3年ほどすると、朝日新聞夕刊の4コマ漫画を担当しろと言われました。とてもハードな仕事で、3年で音を上げました。4コマ漫画は向いていないようです。
クーリエ・アンテルナショナル誌(Courrier International)にも創刊以来20年、日本関連のニュースに漫画を描いています。ほかにも外国紙から連載を頼まれましたが、クーリエほど長く続いている仕事はありません。
ラマラ難民キャンプで。
〈外国指向〉
パリにいるときにFECO(国際漫画家連盟)の会員になりました。
日本に帰ってくると、10人ほどの漫画家仲間を見つけてFECO日本支部を作りました。1989年に、自分を含めて日本人が中東のことをあまりにも知らないので、『中東は日本をどう見るか』という漫画展を弘前(中三アストロドーム)と東京で開いたのが国際活動の始めでした。残念ながら、湾岸戦争が起こる数年前のことなので、観客はあまり集まりませんでした。でも、今の中東の混乱を見ると、非常に良い目の付け所だったと思います。
2000年にトルコのアンカラで展覧会をやった時に、日本領事に呼ばれ、『1999年にトルコでマルマラ大地震が起こり、3万人が亡くなった、その孤児だけを集めた小学校がある。生徒は笑わないし、絵を描かせると悲惨な絵しか描かない。行って、子供たちと一緒に漫画を描いて、笑いを取り戻してやってくれ』と言われ、トルコ人漫画家も誘ってその小学校で漫画フェスティバルをやりました。このフェスティバルは子供たちに大いに喜ばれ、いまだに毎年一回のペースで続いています。漫画には、トラウマを癒すヒーリング能力もあるようです。
2001年にフランスのルーアンで開催された国際政治漫画フェスティバルでグランプリに選ばれました。その時に、『この賞は、あなたのこの漫画が優れているというだけで差し上げるのではない。あなたの漫画家としての生き様に対しての賞なのだ』と言われてビックリしましたが、確かに政治漫画家は危険な仕事で、中東で、アフリカで、アジアで、政府に、過激派テロリストに命を狙われながらも仕事をしている漫画家が大勢いるのです。その一員になろうとは、その時は夢にも思いませんでした。
どうやらヨーロッパにも私の漫画のファンがいてくれるようで。彼らの後押しにより、2003年から、『ダボス会議(世界賢人会議)』に参加することになりました。
一週間の期間中250ほどの会議が行われ、その内の3,4の会議で、自分の漫画を見せながら、パネリストとして国際政治、経済について語らなければいけない...それも英語で。
参加者は、世界の元首、政治家、ビル・ゲーツやジョージ・ソロスなど、世界のトップ企業1000社のCEO,それに、経済学者、ジャーナリスト、総勢2300人のそうそうたるメンバーです。これらの専門家の前で、世界政治、経済について話すなんて、しかも英語で...はじめは足が震えました。
○○語が話せる。ぺらぺらだ...なんて簡単に言いますが色々なレベルがあると思います。
一番楽なのが旅行会話。『旅の恥はかき捨て』ですものね。
講演をする、スピーチをするなんてのも、何とかなるものです。
いくらでも準備ができるし、必死になれば原稿を丸暗記することもできる。
しかし、パネリストになるのは大変。ネーティブが熱くなって侃々諤々とやってるところに口を挟むなんて至難の業です。
ところが、我々漫画家には、『漫画』という雄弁で強力な助っ人がいるのです。
欧米のインテリは政治漫画が大好き。反応良く、大声で笑ってくれます。
聴衆が笑ってくれればこっちのもの、途端に気が楽になって下手な英語でもフランス語でもスラスラ喋れ、冗談も言えるようになります。漫画の力でスタンディングオベーションをもらったことも何度もあり、お陰でダボス会議には毎年呼ばれるようになりました。
(日本の聴衆は漫画を見せても声を出して笑ってくれないので苦手です。日本の講演で成功した試しがありません)
外国語を話すのに、一番難しいのが、王様、大統領、など偉い人と話すことだと思います。
日本人でも、園遊会などで、天皇陛下に話しかけられてしどろもどろになってしまう人がいますよね。あれの英語版、フランス語版をやってしまうのですよ。
ちゃんとしたディナーの席で、隣に高貴な方などがお座わりになられた日にゃ災難です!ちゃんとしたテーブルマナーで食事しつつ、優雅で高尚なお話をしなければいけない。ステーキの一片を口に入れた途端話かけられたら、どうするか?目を白黒させて、その肉片を素早く飲み込むしか手はないのですよ...噛まずにね。
ウエイターが注いでくれる素敵なワインも、断腸の思いで2杯目は断る...酔っぱらわないために。
これらのことがすべてできて、やっと○○語が話せるということになるのでしょうね。
このマナーに関しても、漫画家は有利なのです。ヨーロッパ文化圏ではアーチストなら少々のマナー違反も許されるということがあるのです。大使館などで行われる正式なレセプションでも、漫画家はまずネクタイはしない。ダボス会議最後のパーティはブラックタイ(タキシード着用)とうたってあるのですが、漫画家連中でノーネクタイ、ブラックタイをしていたのは私だけでした。
2005年にモハメッド漫画問題(デンマークの新聞がモハメッドの漫画を12枚掲載して、世界中でイスラム教徒の暴力的デモが起こり、各地でデンマーク大使館が焼き討ちされ、150人ほどの死者がでた。問題の漫画を描いた漫画家の首に100万ドルの懸賞が付けられ、デンマークに暗殺者が送り込まれた)の影響で、2007年からダボス会議は、漫画家を呼ばなくなりました。イスラム圏の王族や宗教指導者も参加してますからね。世界中の新聞でも自己規制が厳しくなり、イスラム関係や中東関係の漫画が掲載されにくくなりました。
このことに抗議して、2006年にフランスのル・モンド紙の漫画家プランチュと当時国連事務総長だったコフィ・アナンが提唱して"Cartooning for Peace"という運動を立ち上げました。他文化に対する寛容さと表現の自由、漫画家にはジャーナリストとしての自覚を求めるという運動で、2006年ニューヨークの国連本部で一回目のコンフェランス、展覧会が行われたのを皮切りに、世界の15の大都市で開催されています。
毎回、世界の漫画家10人ほどが招待されます。私も5回ほど参加しました。無論日本人は私一人、多くの場合唯一のアジア人で、唯一の仏教徒です。今、世界で最大の問題は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の宗教的、政治的、文化的対立ですが、これらの3宗教は元は同根のセム族一神教。いわば大きなコップ内の対立です。これを、多神教の仏教から、アジアから、外から見る意見も絶対に必要であると思い、声が掛かれば、万難を排して参加することにしています。
参加漫画家と。シャパット氏もいる。
黒いジャケットがPlantu氏。
今年から、"Cartooning for Peace"は国連の正式な基金となります。
しかし、この運動を快く思っていない人々がいます。これらの人からの脅迫にもめげず、毎回中東から、アフリカから漫画家がやって来ます。去年の6月は、エルサレム、パレスチナのラマラ、ベツレヘムで開かれ、私も参加しました。イスラム国の漫画家はイスラエルに入国するのがきわめて難しく、イスラエルの漫画家はパレスチナに入るには、身の危険が伴います(外交官ナンバーの車で入ろうとしましたがイスラエル軍に止められました)。それでも、エルサレムとベツレヘムには全員集まることができ、シンポジウムと展覧会を開くことができました。ベツレヘムに向かう途中、パレスチナをイスラエルから分離する壁(シャロンの壁)に漫画を描いてきました。(冒頭写真及び右の写真)
やはり、政治漫画家とは、単なる職業ではなく、一つの生き方なのだとつくづく思います。
こういった、世界政治、経済がらみのコンフェランスに出席する漫画家の顔ぶれは大体決まっています。世界で50人くらい。新聞漫画の歴史から、漫画のメーンストリームはイギリス漫画とフランス漫画なのでアングロサクソン系とフランス系が半分、それ以外の国の漫画家も英語、フランス語両方話せる人が多いです。
私の場合、仲間と話すときはフランス語、Eメイルは英語というのが多いと思います。
どうも支離滅裂な私の人生ですが、言語と映像という2つの興味の間を右往左往していた感じがします。それに、私にとっては漫画も映画も、文法を持った一つの言語で、その文法さえマスターすれば、世界中の人とお話ができる素敵な言語だと思っています。