フランス人と博士号その①:博士論文審査会まで
前回は博士論文についての話だったので、今回は博士号について。
僕の知る限り、フランスで博士号を取得するにはまず、大学の博士課程で何かについて研究をし、それについて論文を書かなければならない。次にその論文を博士論文審査員の人たちに審査してもらい、彼等の承諾を得られれば、最後に博士論文審査会で審査員たちに論文の内容を報告(要するに発表)する。そこで審査員の質疑応答を経て、彼等が候補者は博士としてふさわしいと判断したら、博士号が授与される。もちろんこの流れは概略的なもので、フランスらしくこまごまとした行政手続きが、論文を提出してから審査会の後まで必要となる。博士論文審査員から成る委員会(のようなもの)をフランス語ではJuryと言い、Rapporteur(報告官)、Examinateur(試験官)、およびDirecteur de Thèse(指導教官)から構成されるが、場合によってはCo-directeur de Thèse(副指導教官)もJuryに加わる。試験官も報告官も大体、各々二名もしくは三名であり、みな博士論文で扱う研究分野における専門家たちである。この専門家たちはフランス国内のみならず国外からも選ばれる。
僕の場合、Juryは二名の報告官、二名の試験官、指導教官そして副指導教官から構成された。そして二人の報告官のうち、一人はなんと日本人の小寺光治博士。初めてその事を知らされた時は、僕は恥ずかしながら小寺博士のことを知らず、僕が日本語で質疑応答できるようにはるばる日本のどこかの大学から招いたのかと思った。しかしそういうわけではまったくなく、小寺先生はストラスブール大学にDirecteur de Rechercheとして勤めている日本人研究者であり、フランスにおける有名な核酸化学の専門家の一人である。そして、それ故に僕の論文審査の試験官として選ばれたわけである。フランスでは、外人部隊に入隊した日本人、モンペリエ大学医学部を卒業してモンペリエで開業医として働いている日本人など、様々な日本人を見てきた。しかし、まさか化学の分野で、しかも僕が研究対象としていた核酸化学の領域で、日本人が研究者としてフランスで活躍しているとは思ってもいなかった。さらに言えば化学の分野では、ストラスブール大学はフランスのみならずヨーロッパでも屈指の名門大学である。ちなみに、ミカエル先生はストラスブール大学出身で、その事を自慢していたのをよく覚えている。
報告官のうちもう一人は、グルノーブル大学のJean-François Constant博士で、Constant博士の所属している研究グループは、僕がモンペリエで所属していたグループとよく共同研究をしていたため、Constant博士の名前は既に知っていた。試験官のうち、一人はパリ大学の質量分析の専門家であるCarlos Afonso博士であり、もう一人はモンペリエ大学のペプチド化学の専門家のGeorges Dewynter教授 であった。Juryの中に、最低限一人はモンペリエ大学の人間がいなければならないという(暗黙の?)ルールがあり、また僕の研究テーマにアルギニンが関わってくるのでDewynter教授が選ばれたわけである。Directeur de Thèseは僕のボスであるJean-Jacques Vasseur先生であり、そしてCo-directeur de Thèseはミカエル先生である。
さて前回書いたように、論文を何とか終えた僕は7部ほど博士論文を製本化して、それらをJuryの人達に審査してもらうために送った。ミカエル先生によれば、この審査の時点で論文が認められない場合があるそうである。こうなると、次のステップである博士論文審査会は開けないのである。幸運にも僕は審査員から論文が認められ、博士論文審査会の許可を得た、つまり第一段階は突破した。博士論文審査会は基本的に公開性であり、僕が所属していた研究室の場合は、同じ研究室に属する人達はみんな出席しなければならない。それ故に大きい会場が必要となり、そのために大学の事務に会場となる場所の申請をする。もちろんこの時、Juryらによって審査会が許可された事を示す書類を見せなければならない。こうして一通りの手続きを終えてようやく審査会の準備が終わるのである。博士論文審査会についてはまた次回。